昭和43年11月23日 朝の御理解
御理解 第2節
「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。」
信心の、おー、いわば、眼目とでも申しましょうか、または、えー、信心の、最終的なものとでも言おうか、いよいよ、ここを目指すというか、えー、神徳を受けると、神徳というのは、あー、神様のご信用だと、あー、久留米の石橋先生は仰っておられますが、その神様のご信用は、えー、信心をすれば、誰でも受けることができるとこう仰る。えー、神様のご信用は、誰でもが受ける事ができるということになる。だから、神様のご信用を頂けると、いうことが、誰でも受けられるというけれども、ほんなら、信心をしておる者が、誰でも、その神徳を受けておる者は、ごく稀である。はー、あちらこそ、神様のご信用を頂いておられる人であろうと、言うような人は、ごく少ない。結局、神様の、ご信用を得ていないのである。そこで、えー、ここに、信心すればと仰るのは、ね。私共が、結局、うー、何事にも信心になれよと仰る。その、何事にも信心になれよという信心になっていないから、神様のお徳が受けられぬ。何事にも、信心にならせて頂けば、誰しも徳が受けられるというのである。なるほど、それなら、神様のご信用が、いよいよ、身に付いてくるだろうと思われます。なるほど、それを進めていけば、みてるという事もなかろうと分かります。ですから、どうしても、私共が、信心にならせて頂くという事を、ね。信心にならせて頂くという事を願いとしなければならない。今日も一日、どうぞ、全て、何事によらず、どのような事柄でも、それを、信心にならせて下さい、信心で受けさせてくださいと。そういう願いが、信心をさせて頂く者に、どうでも必要だという事になるのです。ま、ここまでは、まあ、いつも、この御理解第二節によっていただくところなんですね。
なかなか、えー、信心すれば、誰でも徳が受けられると。だから、参りさえしよらというようなもんじゃないです。結局は、信心にならなければならん、ね。信心すればと仰るのだから。ここで、教祖様が仰っておられる、信心すればということは、何事にも信心になれよということです。ね。それを、具体的に言うと、真心になれ、えー、いよいよ、神様を信じよと。信ずる心を頂けと、いよいよ、神心を目指せと。ね。そういう信心、と同時に、何事にも信心になれよと、こう仰る。見ること聞くこと、おー、なさせて、そして頂く事、ね。信心になる。それを、具体的に、えー、真心でせよ、おー、信じてせよ、ね。神心を持ってせよという事になるわけですけれども、そこで、私は、ここでその、なかなかその、信心になれません。そこで、私は思いますけれどもね。えー、三代金光様の、おー、ご述誡のお言葉の中にありますように、初めの間は、辛うて、辛うて、よう泣きましたがとこう仰る。ね。まあだ、年端も行かん、んー、かそえの十四歳、満十三歳でおありになった。お父君が亡くなられたのが、そうです。ね。後は、その、お父様のお言葉の中に、後はもう、摂胤で出来ると、あの、摂というのが金光様のお名前なんです。ね。だから、あの、摂胤にあとを継がせて貰うて、ま、みんなで、よろしくそれを、ま、カバーしていってくれといったような意味のご遺言をなさっておられます。そして、その、御神前奉仕というのは、もうとにかく、座っておれば楽じゃと、まあ、仰せられたということでございます。ですから、その、親様が、その時の、おー、高等小学校を中途退学しておられます。金光様は。もう、亡くなられましたから、その、小学校を中途退学して、御結界の座についておられます。もうそれこそ、初めの間は、辛うて辛うて、よう泣かれた。まあだ、言うなら遊び盛り、ね。ですから、やはり、えー、今までの遊び友達が、やっぱりその、遊びに来るらしいんですよね、お広前に。もう、摂っちゃん遊ぼうと言うて、やってくるわけです。そうすると、おー、金光様は、御結界を、はーっと言うて、立ち上がりよんなさいましたそうです。そすと、ここに、偉い先生方が交代で、ちゃっとこう、門番のように付いておられる訳ですね。それで、金光様と言うてから、その、申し上げる。ね。お立ちなっちゃいけませんというわけなんです。摂っちゃんと言うてその、遊びに見える。本当に遊び盛りの、いわば、あー、金光様がですね、そういう時に、いわば、泣く泣く、やはり辛抱されたんじゃなかろうかとこう思うですね。まあだ、十三ですから、ね。けれどもその、親様が座っておれば楽じゃと仰せられたから、なくなく辛抱しいしい座っておられたという、座っておったと言うておられます。私は、ね。信心にならせて頂くという事にはね、その辛抱が大事です。泣く泣く辛抱しいしいに、さあ、そこが信心で辛抱、ただ、歯を食いしばって信心するだけじゃない、ね。信心で辛抱するということはです。ね。親様が、座っておれば楽じゃと仰せられたからという、その、親様がというところなんです、信心というのは。ね。それが、信心になることなんです。親様が、座っておれば楽じゃと、ところが、実は楽ではなかったけれども、そこを、泣く泣く辛抱したとこう仰られておる。ね。泣く泣く辛抱しよったら、ね。思うことも無くなり、欲しいものも無くなり、ただ、有難うて、有難うてと言う心持が開けておいでになられた。ね。なるほど、三代様で無からなければ、その、この御教えは、出来まいと思われるのが、いわゆる、信心には、ね。神信心には、辛抱することが一番大切でございますと、こう仰せられている。ね。神信心には、辛抱することが一番大切でございますということは、どういうことかというと、ね。親様が、仰せられたことを、ね。泣く泣くでも、辛抱しぬかれた、その事実があるからなのです。それなんです。ね。座わっとれば、親が楽じゃと言うたばってん、いっちょん、楽じゃないじゃないか、おらもう、こんなとこには座らんと。まず、俺には若さがあるから そんなわけにはいけん。と、我がまま勝手、身勝手なことなさっておったら、ああいう、素晴らしい体得には、お進みならなかったと思います。ね。そして、思うことも無くなり、欲しい、ただ、もう、諦観、いわゆる諦め、もう自分はこういう星の元に生まれたんだから、もう、人のごと遊びには行かれん。人んごとどころ、自分の思うごとは出来ん、あーあ、といったようなものじゃない。親様が仰せられたから、泣く泣く辛抱させていただきよったら、思うことも無くなり、欲しいこともなくなるというのは、決して諦めから生まれたものじゃない。その証拠には、次には、有難うて、有難うてというものが開けてくる。それがお徳なんです。ね。いわゆる、私は、わがまま勝手な信心からは、決してお徳は生まれないと思う。ね。そこは分からない。そこは苦しい。けれども、親様が、そう仰せられたからと、それが信心なんだと。そこが信心なんだと。ね。それが、何事にも信心になることなんです。辛うて辛うて、よう泣かんにしてもです。いっちょも、親が言うた通りにはならんです。楽にはならんです。と、言うことにもなる。けれどもそこを、泣く泣くという辛抱が続けられていくところにです、ね。もう、諦めでも無からなければ、もう、仕方がないといったようなものではなくて、ね。有難うて、有難うてと言うものが、開けておいでられる。有難うて、有難うて、そのお礼の足りない、ね。お詫びばかりを申しておる。もう、ここには限りの無い喜び、限りの無い信心の愛、親身というものを、お感じになっておられることを感じます。ね。で私は、この辺に、どうも、私共は理屈が多すぎると思うんです。親先生が仰ったばってん、仰った通りにはならん。ね。そんなわけにはいけないと。そこに、私は、誰でもが受けられる筈の御神徳が受けられるのじゃなかろうかとこう思うのです。ね。そこで、私は、ここで、皆さんが、信心の稽古をなさる方たちがです、ね。神徳は信心すればだれでも受ける事が出来ると仰る、ね。神徳は信心をすれば誰でもが受ける事が出来る、その信心とは、何事にも信心になることだと。ね。それを、心甚、心神、信心にならせて頂くということである。ね。いよいよ、神心を、または、真心を、ね。いよいよ、神様を信じて疑わない心を作っていくということ。そういうようなですね、ひっくるめたものが頂けることは、私が、今日は、三代様の、その、ご述誡のお言葉を持って、皆さんに聞いて頂いたわけです。ね。座っておれば楽じゃと、ね。仰るから、座っておったけれども、決して楽ではなかった、と言うて立ち上がっておられずに、ね。そこんところを、泣く泣くでも辛抱しいしいに、しい続けておられるというところにです、そこから、もう、御徳が流れ込んできておられる。ね。天地のご信用が、どんどん、金光様の内容に入っておいられる。ね。いわゆる、有難うて、有難うてというものが生まれておられる。ね。そこでそれを、なら、ここ風に申しますと、どういう事かと言うとです。私共が、結局、ね。白紙になること。結局、私というものが空しゅうなること。為には、先ず、障子一重がままならぬ人の身であるという事実を一つ、つきとめること。ね。神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだというところをつきとめる事。ね。結局、無力である私というものを、本当に知ること。そこから信心が、私は始められると思う。ね。そこに、神様の前に、無条件降伏という事になるのです。言うならば、神様の前に両手を挙げることになるのです。ね。そこから、私は、神様任せということが出来ると思う。神様の前に、無条件降伏をした姿、神様が、ね。右に行け、左に行けと、そうしなければ出来ない。それが、私は、本当の、いわゆる、神様任せだとこう思う。ね。ですから、ここで、今まで申しましたことを、おー、ま、ただ、答えだけ出すならです、ね。御神徳というのは、神様任せにならなければ頂けないという事。自分の意志じゃあない。ね。神様任せになるということは、初めの間は、辛うて、辛うて、よう泣くという事にもなってくるのだけれども、ね。親様が、そう仰せられるからと、と言うこと。ね。親先生がこういわれるからという事。ね。そこに、親先生任せにならせて頂きよったら、有難うて、有難うてと言うものが、段々身についてきたという事になる。それが、すこーし、身に着き出したらです、そこから、私は、楽しいもの、面白いようなもの、ね。言うならば、そこから、有難うて、有難うてというものが伴ってくる、付いてくる。もう、ただや、おろかな、おろそかなことは出来ませんという事になってくる。だからこそ、御徳は限りなく、ね。みてるということがないという、御神徳がいただけてくる。ね。そこで、何も分からんなら、例えば、今日、少し、まあ、理屈っぽくなりましたでしょうかね。その、理屈っぽく、意味は分からんでも、信心とは、心甚、心神、信心と、または、金光様の述誡のお言葉を例に引いてからの話であったが、ね。そういうことはまあ、聞かん、知らん中にあってもです、ね。それこそ、昔よく言われましたですよね。ついてきなされ、この提灯に、決して苦労はさせはせんと。というように、もう、私が言う通りしてくりゃ、おかげになると。そこで、皆さんが、親先生任せになりゃ、おかげになると、ね。氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからといったような信心です。ね。その内容が、今日、私が申しましたようなこと。氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられるような、いわゆる、限りの無い働きになってくるわけなんです。ね。
神徳は、信心をすれば誰でも受けられる。けれども、信心しよるけれども、何十年信心しよるけれども、お神徳らしいものをいただいているものは非常に少ない。そら、ただ、拝むとか、参ってくるということではなくて、ね。信心すればということは、信心になるということなんだ。何事にも信心になれよと仰る。何事にも信心になることになるのだ。そんなら、何事にも信心になるということは、どのようなことかと、ね。そら、真心になることだ、神心になることだという事なんだけれども、ね。そういう、真心に、神心にならせて頂くことのために、一つ、泣く泣くでも、辛抱させて貰う。それは、親様が仰せられたのであるからということ。ね。金光様が、教えられたから、ま、近く言うならば、ね。親先生が仰るからと言うことなんです。ね。親先生が、ああ仰るから、泣く泣くでも辛抱すると言うところに信心があるんです。信心辛抱が。ね。そこから、成るほどと合点の行くようなおかげにもなってくると同時にです、ね。思うこともなくなり、欲しいものもなくなり、いよいよ、自分というものが、我情我欲の、の中から、外れた自分とでも申しましょうか、または、白紙の自分とでも申しましょうか、ね。いわゆる、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんというようなものが、自ずと分かってくる。ね。そこから、神様任せになるより他に道はないのだからと。と、神様の前に無条件降伏が出来る。ね。そこに、私は、限りのないおかげ、ね。そこんところを、まあ、例えていうならば、いよいよ豊かに、いよいよ大きくといったようなふうにも申しているわけでございます。ね。いよいよ豊かに、いよいよ大きくならなければ、辛抱が出来んことがある。ね。その辛抱を、親先生が、ああ仰るからと言って、辛抱しぬいていくところにです、ね。神様のご信用が頂けると思うのです。ただ、結局、信心とは、自分を空しゅうすることだと、ね。白紙になることだと。障子一重がままならぬ、人の身であるということを分かる事だと申しますけれども、それが、分かるということのためにもです。お互いがその、ね。神様のお教えに、泣く泣くでも辛抱しぬかせてもらうというような、いわば、修行の心とでも申しましょうか、ね。修行精神が無からなければ、そこを実感して、分からせて頂くことは出来んと思うのです。ですから、まあ、御徳を頂いてみると、見やすいことになるかもしれませんね。ただ、辛抱さえすりゃ良かっじゃから。ね。けれども、なかなかそこを、見やすいこととは思われません、ね。けれどもです、私は、ここに、まあ、いうなら、簡単に、ね。ここはもう、誰でも頂きたいところ。先の世までも持っていかれるもの。子孫にも残しておかれるようなもの。それは、家でも無からなければ、財産でもない、それは、御神徳だけなのだ。そんなら、その御神徳を頂きたいと、こう思う。ね。ほんなら、御神徳を頂くためには、信心すれば誰でも受ける事が出来ると、簡単にこう、御教え下されてあるけれども、その事を、実際、受けようという気になるとです。今日、私が申しましたような内容の一つ一つがです、ね。身につい行かなければならないことになるのです。ほんなら、その、一つ一つを身に付けていくという事もです、その気になれば、出きんことはない。せっかく、信心をさせて頂いておるのであるから、ひと修行させて頂いてからでも、おかげ頂こうというなら、一修行させて頂いてからでも、御徳を受けようという事になれば出来ることである。ね。一番の手本は、三代金光様。十三歳のお子様ですら、お出来になられたんだものね。そりゃあ、金光様は生神様じゃから、と言って、決してそうじゃない。初めから生神様じゃない。やはり、摂っちゃん、遊ぼうと言うてくりゃ、あっと言うて立ち上がりなさった金光様なのだ。ね。そこを、親様が教えられたからと言うて、泣く泣くでも辛抱されたところに、金光様の素晴らしさがあるのですよ。ね。十三の子供でも、出来る事なのです。そこに、私共が、次に体験することであろう、思うことも無くなり、欲しいものも無くなり、有難うて、有難うてと言ったようなものとは、こういうものであろうかというようなものを身に付けて行きたい。これは、私を含めて、皆さんも一緒に。いよいよ、そこんところを頂いていきたいですね。どうぞ、先の世まで持って行かれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すれば誰でも受ける事が出来る。みてるということがない。と、教えておられるのでございますから、そこんところを、本当に、えー、身に付けていく。この御教えを、そのまま、私共の、この内容を、私共のものとして、おかげを頂いていくというところにです。ね。お互い、信心の楽しみが、感じられるようになったら有難い。おかげを受ける喜びよりも、御徳に触れていくことの喜び、ね。そこで、どのような修行があってもです。はあー、神様は、これで、これで下さるとばいなと。これで私を鍛えて下さるとばいなと。と、苦しいことは苦しいけれども、心の底に、何か知らん楽しみが出来てくる。ね。そういう、喜び、そういう信心の楽しみを身に付けて行きたいと思う。どうぞ。
中村良一
2005年5月8日